故郷の幸多き将来の為
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常長ブログ
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支倉常長隊とは
伊達の交渉人 支倉常長
時は慶長18年(1613年)。
使者として太平洋・大西洋を渡り、
日本初となる通商外交の国際舞台で活躍した人物がいた。
その者の名は「支倉常長」。
政宗公への忠誠心や大国をも唸らした日本人の凛々しさ、
そして悲運な時代にも屈せず生き抜いた様を現世に抱く。
関わる者全ての幸せを願い、川崎町に実在した
武将やローマにて公民権を得た家臣で構成される
公式PR隊の名は『みやぎ川崎慶長遣欧使節団』である!
伊達の交渉人として、400年前果たすことのできなかった使命と熱き思いを胸に、愛すべき故郷「川崎町」を広く周知し、偉業と功績を伝えるため現世に今、蘇る!
活動内容

行事への出陣・宣伝活動!
地域のお祭・行事、その他各種イベント等に出陣し、川崎町の宣伝活動を行います。

おもてなし・演武パフォーマンス!
観光客の皆さんのお出迎えの他、「演武」パフォーマンスも行っております。

川崎町の魅力を全国へ発信!
テレビ、ラジオ、広報誌などへのメディア出演も行っております。

地元企業の応援!
地元企業などのプロモーション活動を応援します。
みやぎ川崎
支倉常長まつり
400年前、戦場を駆けめぐり
ついには宮城の大地を蹴って
世界に船出した支倉常長。
彼を讃えるこの祭りは川崎町最大の
イベントです。
隊員紹介
支倉六右衛門常長はせくら ろくえもん つねなが
慶長18年(1613年)仙台藩祖・伊達政宗公の名代として太平洋・大西洋を渡り、日本人初となる通商外交の国際舞台で活躍した、世界史にその名が刻まれている偉人。
「行路偵察」や戦場における情報収集能力に秀でた「伊達の交渉人」。常長隊の中心で隊長。
幼名与市(のち五郎左衛門〜六右衛門)洗礼名ドン・フィリッポ・フランシスコ・ファシクラ生年月日元亀2年(1571年※)※「1570年ごろ」とする説もあります。

伊達 村詮だて むらあき
仙台藩一門第九席・川崎伊達家初代当主。
砂金家断絶となりし後、享保8年(1724年)より川崎館主となり仙台藩の西の守りを固め、七代に亘り役140年間川崎一帯を治めた。
赤い陣羽織を着用し、常長隊長の右腕を務める男気の持ち主。
砂金右兵衛実常いさごうへいさねつね
仙台藩・川崎領の領主であり、「川崎城(別名「前川城」。後に川崎要害と呼ばれ町名の元となる)」を築城する。しかし、後継ぎがなく砂金家は断絶となり川崎伊達家・村和に領地を譲る。
黒い陣羽織を着用し、兜には赤三日月を輝かせる。
滝野 嘉兵衛たきの かへい
常長大使の護衛指揮官を務めた男。山城の国(京都)出身の商人。「自分の命に変えてでも常長様(隊長)の命は守る」と使命感に燃えるが、今も昔も意気込み過ぎるところがある。
ローマにて公民権を得た人物でもあり、洗礼名は「ドン・トマス」。
野間 半兵衛のま はんべい
尾張の国(名古屋)出身の徳川幕府の密偵。奥州の覇者・伊達政宗公の使節団の監視役を務めたが、現代では反対に常長公から暴走しないように監視されている。
ローマにて公民権を得た人物でもあり、洗礼名は「ドン・フランシスコ」。
伊丹 宗味いたみ そうみ
摂津の国(大阪)出身の仙台藩士。朱印船貿易の豪商にして徳川家康公により朱印状を下付されている。今も昔も常長公の補助役として活躍している。ローマにて公民権を得た人物でもあり、洗礼名は「ドン・ペドロ」。

小寺 外記こでら げき
陸奥の国(奥州)出身の仙台藩士。支倉常長に随行した秘書官として、使節団の真実を後世に伝え残したとされている。
常長と川崎町
川崎町は宮城県仙台市の南、近郊でありながら、
蔵王山麓に属する山岳丘陵地帯と河岸段丘の発達した山間盆地に区分できる自然豊かな地域です。
川崎小学校校舎の建っている館山には、
前川村の中内城(本城:もとじょう)城主砂金右兵衛実常が
慶長13年(1608年)から15年(1610年)にかけて築城した
川崎城(臥牛城ともいった)がありました。
支倉常長のふるさと

上楯城の少年・常長は
ゆたかな自然に遊び、やがて才覚を発揮した
慶長遣欧使節団関係資料が世界的に重要な「世界記憶遺産」に登録決定となったことで全国的に注目度が上がった「支倉常長」。じつは川崎町は支倉常長のふるさとなのです。
571年、支倉常長は出羽国置賜郡立石村(現在の山形県米沢市立石)で、米沢伊達家・中級家臣の支倉常成(つねなり)の子に生まれました。 時は戦国の世となり、この2年後には織田信長が室町幕府を滅ぼしています。
父の支倉常成は、伊達政宗公の父・伊達輝宗公に仕えていました。常長が生まれたとき政宗公は五歳でした。常長の父の兄・支倉紀伊守時正に子がなかったため、父常成は常長を8歳のときに時正の養子にしています。そして義父・時正が支倉村に領地替えとなり、現在の川崎町支倉地区の「上楯城」に移ります。こうして支倉常長は、その少年時代を支倉村の美しい自然の中で過ごすことになります。彼が育った城址や常長の墓が、川崎町には残されているのです。

